真葛香山作花瓶
真葛香山窯
真葛香山作 黄釉青華立葵図花瓶
現在の横浜市南区南大田にあった、
最盛期の真葛香山窯の様子
京の陶工真葛香山、横浜へ

 明治3年、横浜の貿易商からの招聘を受けて京都の
真葛焼窯元、宮川香山(真葛香山)は海外貿易に大きな
夢を賭けて、横浜の大田村字不二山下に窯を築いた。
香山は陶土を求めて関東一円の山野を探索して歩き、
天城山麓で製陶に適する白土を見出し、これに秦野の並土と
大田村の赤土を加えることで、ようやく原土を確保するまでに、
ほぼ二年を費やしたという。
苦心の末に開窯した香山であったが、当初は小規模な人数で、
貿易商の注文のままに、欧米人が好む薩摩焼風の日用雑器を
作っていたようである.やがて、先代、楽長造から受け継いだ
細工物の才能を活かし、薩摩焼風の物に彫刻的な細工を施す
新機軸の製品を生み出した香山は磁器の生産にも成功し、
独自の釉薬と絵具の研究を始め、芸術性の高い製品作りに
乗り出したのである。
 明治9年から明治14年にかけて、真葛香山の作品は、内外の
博覧会において、数々の受賞に輝き、フィラデルフィア万国博覧会、
パリ万国博覧会などでの成功によって「マクズウエア」は欧米で
高く評価されるようになったのである。

横浜焼の隆盛と衰退
 
 真葛焼が海外輸出の進展により規模拡大していくのと並行
するように、横浜では、各地から仕入れた生地に絵付を施して
輸出品とする絵付場が生まれ 、やがて、それらは横浜絵付、
あるいは「横浜焼」と呼ばれるようになり、盛時には、
四百人もの職人が集まっていたという。
真葛焼と横浜焼は共に盛衰がありながらも昭和まで
続いていたが、ついに運命の日を迎えるのであった。
太平洋戦争末期の昭和20年5月29日の横浜大空襲によって、
真葛焼の工場と住居は被災し、三代香山宮川葛之輔は家族、
従業員と共に焼死し、
ここに、真葛焼はその命脈を絶たれたのであった。

ハマ焼の始まり 

 終戦後の横浜にも、細々ながら幾つかの絵付場が
存在していた.設計技師を目指し,早稲田大学に入学しながらも
オートバイ事故で足に障害を負い、
下宿先が絵付職人の家であったことからその道に入った、
故木田甲太郎(公山)もその中にいた。
真葛香山の弟子、平野玉山からも教えを受けた木田公山は
貿易用陶磁器の絵付の仕事をしていたが、やがて同じ障害者
仲間の二人と共に、障害者自立就労の為の、
陶磁器絵付訓練所を設立する事を思い立つのであった。
昭和45年7月、三人は鶴見共同作業所内に希望更生会を
設立、その後、鶴見区大黒町に移転し財団法人に改組、
昭和59年11月には、社会福祉法人希望更生会,
,希望更生センターとして生まれ変わったのである。
 この間、木田公山師はハマ焼の発展と普及に努め、
皇居園遊会招待、神奈川県民文化賞受賞などの栄誉に輝き、
数度のテレビ出演などにより
ハマ焼の名を高め、更に絵付技術後継者の育成に努めた。
木田公山師
テレビ局の取材をうけている木田公山師。
艶消花瓶の下地塗りををしている様子。
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